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日本人皆の責任を負って死にますバパ・バリと慕われた三浦襄氏

太平洋戦争の終結した1945年8月15日から一カ月もたたない同年9月7日午前6時ごろ、一人のバリ在住日本人が拳銃で自らの命を絶った。残された遺書には「死ぬのは私一人でよいと思います。私が日本人皆の責任を負って死にます」とあり、戦時中に日本が約束したインドネシア独立という約束を果たせなかった日本人の責任を一身に負いバリ人に示した自決だった。

「インドネシア独立の基礎は諸君の犠牲の血であり骨であらねばならぬことを強調してきた。(中略)今私は穢れたる肉体をかなぐり捨て清き正しき憐憫と感謝に満つる霊魂となりてバリ島に止まり、吾敬愛し親交せる130万同胞の繫栄と幸福を永遠に祈り念ぜんとする者である。諸君よ左様なら」と遺書は結ばれている。

三浦襄氏は1888年、仙台でキリスト教牧師の子として生まれ、南洋商会に入社しスマラン、マカッサルなどで雑貨商を営み1930年にバリ島に移住、一時帰国後開戦に伴い現地事情に詳しいとしてバリ民政監部顧問として再びバリ島に戻った。

「インドネシアは必ず日本軍の力で独立させる。日本人は嘘をつかない」といい続けバリ人からは絶大な信用を獲得して「バパ・バリ(バリの父)」として慕われた。

結果として「嘘をつくことになった敗戦の責任」を負ったその死にバリの多くの人が慟哭したという。

三浦氏は今デンパサール市イマン・ボンジョルノ通りにある墓所で灼熱の太陽を浴びながら静かに眠っている。墓の横には遺書の抜粋も掲げられている。

墓守をしているというバリ人によると今ではたまに日本人が墓参に訪れるだけでバリ人の間でも三浦氏のことは忘れられようとしているという。

「バパ・バリ三浦襄、バリ島を訪れる日本人のための物語」(社会評論社2011年)という元ジャカルタ日本人学校教師だった長洋弘氏の好著が三浦氏の生涯を見事に描いている。

日本から、そしてインドネシア、東南アジア各地から観光でバリ島を訪れる日本人は多い。しかしながら三浦襄氏という一人の日本人がバリ島、インドネシアをこよなく愛し、バリ人を尊敬し、親交を深めそして自ら命を絶った過去に思いをはせる人はとても少ない。
ぜひ一度三浦氏の墓所を訪れて、その過去に触れてほしいと思う。

執筆:大塚 智彦
1957年生、毎日新聞ジャカルタ支局長、産経新聞シンガポール支局長などを経て2016年からフリーに。
月刊誌やネット版ニューズウィーク、JBPress、現代ビジネス、東洋経済オンライン、Japan in depth などにインドネシアや東南アジア情勢を執筆。
※本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、PT KiuPlat Media社の公式見解を反映しているものではありません。