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【熱狂諸島】市原和雄氏|ますや・パパイヤフレッシュギャラリーを創業

※2017年に週刊Lifenesiaに掲載された記事です。

インドネシアで事業に熱狂する人たちの半生を紹介

プロフィール
市原 和雄 氏
PT MASUYA GRAHA TRIKENCANA 社長
1983年 拓殖大学卒業
1983年 南洋コマース入社
1987年 ますや創業
川上から川下までの食品流通強化を目指している

インドネシアとの出会い

私は、1989年に食品商社のMASUYAを創業、1995年には日本食のスーパーマーケット・「papaya(パパイヤ)」をオープンした。現在は、ジャカルタで4店舗、ブカシ、バンドン、スラバヤ、バリそれぞれ1店舗、合計8店舗を営業中だ。その他、飲食業なども手広く展開している。

事業を列記すると、まるでトントン拍子に会社が拡大してきたように思う方が、いらっしゃるかもしれない。しかし、インドネシアでビジネスを始めて、約30年の間には、ピンチの瞬間が数え切れないほどあった。信じていた人に裏切られ、すべてを失いかけたことがある。挫折したプロジェクトは、20以上。それでも、私はインドネシアとこの国に暮らす人々が大好きだ。

小学6年のときの筆者

インドネシアとの出会いは、大学生時代にまでさかのぼる。拓殖大学に入学した私は、当時、学内で一番強かった空手部に入った。ある日、部活の先輩が『三国志』を読めと言う。読書の習慣のない私だったが、先輩の命令には逆らえない。嫌々読み始めたのだが、その面白さに夢中になった。アジアと世界の歴史を、もっと知りたくなった。

1981年、学校の補助金を利用して海外ツアーへ。香港、シンガポール、インドネシアの3カ国を旅したが、私の心を捉えたのは、インドネシアだった。ジャワ島をバスや鉄道を利用して廻った。インドネシア人のおおらかさと国のサイズ感がちょうど良いと思った。

学生時代インドネシアを訪問したときの筆者

就職活動では、千葉県警とインドネシア専門商社の2つに内定。両親は、警察官を勧めたが、私は商社で勝負してみたかった。
結局、私は専門商社に就職する。最初の1年は国内の事務所に勤め、翌年インドネシアへ出された。それから3年、駐在員として日本の食品をこちらに輸入したり、ラタン家具などを輸出したりする業務に携わった。

そうこうして働くうちに、日本食を取り扱う食堂や小売業者から、生鮮食品を卸して欲しいという声を聞くようになった。要望に応えたくて、勤務先に、生ものの扱いを提案してみた。しかし、インドネシアには保険がないし、生鮮物の扱いは難易度が高いからとOKが出ない。会社に3回掛け合って、ダメなら自分で起業すると心に決めた。勤め先の社長から3度目のNGを告げられて、私は会社を興すことにした。26歳の頃だ。

商社マンとして、ジャカルタを駆けずり回っていたおかげで、スポンサーの目処はついていた。中華系の銀行頭取が、私の事業のオーナーになってくれるという。1987年4月1日に、初めての会社を設立した。「ますや」という社名は、実家の屋号。魚の卸売りからスタートした。前金で仕入れて、事業を少しずつ拡げていった。キッコーマン醤油、サントリー、紀文などの食品メーカーと繋がりを作り、輸入と卸、販売業を確立。取引先の飲食店のオーナーたちが、喜んでくれることがうれしかった。

創業メンバーと筆者(右)

当時、インドネシア在住の日本人は5千人弱。日本食屋は14~5軒くらいあっただろうか。板前さんの要望や不満を聞いて歩いた。私は、お金のことは、よく分からなかった。が、半年くらいで軌道に乗せられた。当時から、今に至るまで、取引が続いている企業も多い。ホテルや中華レストラン、高級店まで、顧客も商品も増えていった。

初めて、挑戦することばかりだった。インドネシア人のスタッフに、サンマやサバ、タコといった名称を教えることに手こずったりした。しかし、何もかもが楽しいのだ。すべて、うまくいっているように思えた。