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【熱狂諸島】市原和雄氏|ますや・パパイヤフレッシュギャラリーを創業

災い転じて福と成す

1997年に発生したアジア通貨危機の影響で、通貨の価値が変わり、MASUYAは、支払いが困難な状態になった。取引先からの集金も難しくなり、窮地に立たされていた。

私は、自分自身と従業員の給料を削り、死に物狂いで前進するしかなかった。数ヶ月かけてほとんどの企業への返済を完了させた頃、通貨危機の最悪の時期も終わりを告げた。

しかし、額にして1.6億円以上、2社への返済期限が迫っている。会社には、カネなんて残っていない。返済できるはずがなかった。私は、悔しさを奥歯でかみ締めた。もう、倒産するしかないのか……。

すると、返済先である太平洋貿易と三和海産の2社から「いつ頃なら、返済できるのか」と打診があった。返済期限の延長が認められたのだ。これまで、支払の約束を破らず、誠実に信頼関係を構築してきた結果の配慮だった。返済期限を2年半延長してもらい、最悪の時期を脱した。さらに、大塚製薬も助け舟を出してくれた。融資先として、りそな銀行(当時:大和銀行)を紹介してくれたのだ。今もこの3社には、感謝し続けている。

災い転じて福と成す。アジア通貨危機の後、倒産したり、インドネシアから会社を引き上げたりして、ライバル企業たちが消えた。さらに、ルピアが力を増していく。差益から利益が発生し、内部留保も増加。太平洋貿易と三和海産へ一括返済可能なレベルにまでなった。しかし、2社は、今後のことを考え、当初の予定通り2年半かけて返済してくれたら良いと言う。

通貨危機前の売上を10と仮定すると、危機後にはいったん2から3まで落ち込んだ。しかし、今では20くらいまで伸張した。

私には、ひとつ後悔していることがあった。通貨危機の頃、従業員たちの給料を減らしてしまったことだ。スタッフの報酬を減らすなんて、経営者として恥ずかしい。私は、内部留保が確保できた段階で、スタッフたちに一括で返済した。

さらに、余剰資金で、大塚製薬との合併会社の設立に投資し、ポカリスエットの生産工場を新設。MASUYAが扱っていたポカリスエットの量は、1989年の段階で、月に50カートンだった。が、50万カートンまで増やすことができた。

1995年、資金に余裕ができたので、日本の食材を扱うスーパーマーケット「papaya(パパイヤ)」の1号店をオープンさせた。スーパー運営のノウハウとその面白さについては、西友の杉田氏から学んだ。

スーパーマーケットの経営を始めたことで、消費者の姿が見えるようになった。私は、papayaの店内を歩き回り、お客様が商品をかごに入れてくださる姿を見ることが好きだ。レジでお金を支払い、品物を持って店から出て行かれるお客様の後姿を見送りながら、スーパーマーケットを始めて良かったなと感じている。

工業団地の中に、コンビニを作ってくれないかという話が、ある会社から持ち込まれた。人材確保や物流コストを考え、検討してみたが勝算がない。3回も断りを入れた。

MOS BURGERオープン時

しかし、なんと、4度目の申し入れがあったのだ。同胞の彼が、私を信じて頭を下げている。そこまで見込まれているのに断り続けるなんて、私はなんと狭量な男だろう。何か熱い気持ちが沸いてきた。利益なんてどうでも良い。勝てる見込みのない戦だったが、勝負に出た。結局、コンビニ経営は軌道に乗った。ほかの工業団地にも、店舗を設置。同じ道路沿いに店を増やすことで輸送費を削減することにも成功した。その他、ベーカリーショップの運営やモスバーガーのフランチャイズ展開も開始した。