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伊東深水が残した インドネシアの風俗画

第二次世界大戦の開戦前に、大本営報道部は陸・海軍に著名な画家、作家、詩人、そして新聞記者を宣伝班員(終戦後は報道班員と呼ばれた)として徴用した。宣伝班員とは大本営報道部が考案した新たな従軍報道方式で、戦意高揚を担わされた者たちだった。

その中の1人が伊東深水(1898-1972)だ。日本画独特の柔らかな表現による「美人画」が有名な日本人画家で、朝丘雪路の父親と紹介した方がわかりやすいかもしれない。伊東深水は1943年4月から海軍に宣伝班員として従軍。従軍画家としてシンガポールやインドネシア各地へ派遣された。彼はシンガポールやインドネシアで地元の風景や生活を多くスケッチした。セレベス島(現スラウェシ島)タワンボネ市場に集うブギス族の女たち、マカレ・トラジャ戦捷(せんしょう)の踊りやトラジャの朝市、「南部セレベス・ナンガラ付近の雨季」など彼のスケッチは400枚以上と言われている。現在、千葉県市川市に270点所蔵、信州の酒蔵美術館に約50点、合計320点が所蔵されているという。戦時中は大本営報道部による報道管制が敷かれ、現地の市民生活を記録した資料など皆無に等しい状況だった。これらのスケッチは戦渦のインドネシアを知るためには大変貴重な資料であった。

1943年10月、伊東深水の帰国後には日本橋「三越」で「南方風俗スケッチ展」が開催された。2011年10月13日、平塚市美術館館長・草薙奈津子さんは「伊東深水展」を主催した際、開館20周年記念展の冊子「伊東深水-時代の目撃者-」で以下のように自身の思いを綴った。「作品は、とても戦争を鼓舞するためのものとは思えない。深水が初めて南洋に魅せられ、その土地の人々、あるいはその地の風光に共感し、心弾ませながら描いていると言った方が良い。動きがあって、空間把握の巧みな写生がそんなことを思わせる。」

大本営のプロパガンダと残酷な戦場の狭間で伊東深水を含めた宣伝班員は、筆やペンで戦争の現状を伝えた。彼のスケッチは、美しいインドネシアの原風景とその地域で生きる人々の尊厳と独自の文化や生活を丁寧に描いている印象だ。彼のスケッチにはジャカルタを描いた作品、「タンヂョンプリオク海軍工作部ジャカルタ分工場にて」がある。発展した現在のタンジュンプリオク港には当時の面影はもちろんないが、当時の厳しい報道規制を乗り越えて、彼の作品が残っていることに感謝したい。

執筆:大塚 智彦
1957年生、毎日新聞ジャカルタ支局長、産経新聞シンガポール支局長などを経て2016年からフリーに。
月刊誌やネット版ニューズウィーク、JBPress、現代ビジネス、東洋経済オンライン、Japan in depth などにインドネシアや東南アジア情勢を執筆。
※本コラムは筆者の個人的見解を示すものであり、PT KiuPlat Media社の公式見解を反映しているものではありません。