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【熱狂諸島】鈴木寿人 氏|ヘアサロン『One Piece』Art Director

※2019年に週刊Lifenesiaに掲載された記事です。

インドネシアで事業に熱狂する人たちの半生を紹介

プロフィール

鈴木寿人 氏
PT.Excelinternational Art Director
2009年:シンガポールにで「BASESTATION BY HISATO&CHIE」の立ち上げに参画
2010年:インドネシアにて「Shunji・Matsuo By HISATO」を立ち上げる
現在「One Piece」に名称を変更し、日本を含む6店舗展開中

挫折から見えた未来

インドネシア・ジャカルタは人生の価値観を大きく変えてくれた街。劣等感を抱えながら生きてきた僕にチャンスとやりがいを与え、モチベーションを上げてくれた、まさに魅惑の国そのものだった。

神奈川県葉山町。海と山が近くにあり、皇族の別荘「御用邸」もある穏やかな街で僕は生まれ育った。いわゆる、東京や横浜、横須賀付近で働いた人たちが帰ってくるベッドタウンだ。物静かな父は横浜や横須賀の貸衣装店で勤め、九州出身でしっかり者の母は自宅で美容院を経営していた。共働きの両親のもとで、8才年上の姉とひとつ年上の姉にかわいがられた末っ子の僕は、やんちゃな少年時代を過ごした。

幼い頃から、家に帰ると母の美容院にはいつもお客さんがいる。「大きな声を出しちゃだめよ」と言われていたため、自然と外で遊ぶようになった。遊ぶのはいいが、元気が良すぎた僕は腕や足を骨折し、何度も両親に心配をかけたのだった。

父が中日ドラゴンズファン、母がママさんソフトボールに所属していたせいか、気がつけば僕も小学校時代はソフトボール、中学時代は野球に夢中になる毎日を送っていた。高校に入学後も、野球では4番打者、運動会ではリレーのアンカーを務める順風満帆の学生生活。このまま野球選手へという気持ちだったが、現実はそう甘くはない。努力とは裏腹に、プロ野球選手を目指す仲間たちからはどんどんと実力が引き離されていく現実が待っていた。ヒーローだった時期から一転して、うまくいかない日々に突入していく。深まる焦燥感。厳しい世界であることは心のどこかでは分かってはいたが、思春期のど真ん中でそれをうまく消化することができなかった。やがて生活は荒れはじめ、何度も停学になる。好奇心旺盛だったため、そんなやんちゃな生き方がおしゃれだとさえ感じていた。そして、あまりのやんちゃぶりに、とうとう高校2年の1学期で高校を退学。17才の7月のことだ。

その頃の僕は将来のことなどまったく考えていなかった。なるようになると、甘く考えていた。そんな僕に、母が「働かないなら、家にはいさせない。髪を金髪に染めたり、ピアスを開けたりが好きなら美容師になりなさい。それなら誰も文句は言わない。美容学校にいくなら、お金は出してあげる。」とピシャリと言い放ったのだ。二人の姉もあきれていた。寡黙な父は何も言わなかったが、かなり心を痛めていたことだろう。もしかしたら、母にそう言わせたのは父だったのかもしれない。

しばらく悩んだ。これからどうするべきか。特に何がしたいという目標もすぐには見つかりそうもない。色々と考えたあげく、僕は鎌倉早見美容芸術専門学校の通信教育課程にて美容師の勉強を始めることにした。それと同時に横浜の美容院で働き始める。きっかけはやはり母だった。のちに知るのだが、どうやら母が知り合いの美容室に「どうしようもないから預かってください」と頭を下げてくれたそうだ。そんなことも知らず、本当にどうしようもない奴だったのだ。

その頃の僕は、どうしようもない上に、小心者だったと思う。実家を出る気もないし、美容院を継ぐ気持ちすらない。しかし、あくまでもホームタウンは「葉山」と決めていた。東京で勝負する気なんてみじんもない。「自分にはできない」という弱気な気持ちと、「落ちこぼれ」という卑屈な精神が、いつしか僕の心の奥底に宿っていたのだ。

美容院での見習い仕事と、通信教育課程で学び始め、数カ月経ったある日、「ワインディングコンテスト」(筒状のパーマのロットを巻く技術コンテスト)に出場することになった。周りはみんな年上ばかり。当然、中途半端な気持ちで参加している人などいるはずもなく、ピンと張り詰めた空気が漂い、みんな真剣だった。コンテストは予選落ち。しかし僕はその経験を通して、初めて自分の可能性を感じることができた。努力さえすれば、学歴に関係なく、ライバルたちと同じ土俵で戦えるのではないか。そして、一気に成り上がれるのではないか。小さな心に大きな火が灯った瞬間だった。

焦りと転機。運命の出会いへ

コンテストの経験は大いに勉強になり、それ以降、僕は「学ぶ」ことに真面目に向き合うようになった。そして一年後、同じ美容院で働く先輩とタッグを組み、トータルコーディネートの大会に出場。結果は、関東大会の第2位を受賞し、全国大会の出場チケットを手にした。90年代後半といえば、世間ではドラマの影響で美容師が「カリスマ」と呼ばれるようになり、空前の美容師ブームが到来。美容師は人気の職業であった。そんな状況で行われた全国大会で、僕らは、美容雑誌の「出版会社賞」と「有名美容師の賞」のダブル受賞を果たしたのだ。

それがきっかけで、有頂天になってしまう。アシスタントから21才でスタイリストにも昇格し、「認められた」とそこであぐらをかいてしまったのだ。急速に落ちていくモチベーションに歯止めをかけることはできなかった。そんな時、「美容師の活躍できる場所は日本だけじゃない」という家族の声に、僕はハッとさせられたのだ。

仕事の合間をぬって、海外で美容師をする方法を調べる日々。貯金はわずかだったが、ワーキングホリデー制度を使ってオーストラリアに行くことを決めた。目標は、「必ず現地の人が経営する美容院で働く」こと。せっかく日本を離れる決意をしたのだから、お客さんが日本人に限られない美容院で働いてみたかったのである。

滞在先も決めないままでの渡豪。唯一、紹介で決まっていた仕事先は、日本人が経営する店だった。その近くに部屋を借りることを決めたが、言葉が通じず、すべてをYES・NOと、ジェスチャーで乗り切り、なんとか契約まではこぎつけた。しかし、バスに乗るのも、食事の注文すらまともにできない語学力のままでは、現地の美容院に働くなど夢のまた夢。まずは語学学校に通おうと考えたが、学費に必要な3000A$など手元にない。そこで僕は、仕事で稼いだ350A$の給料から300A$を握りしめて、スターシティカジノへと向かった。この発想が僕らしい。しかし、そのカジノでなんと、300A$が3000A$に化けたのだ。運よく語学学校に通い、美容院の仕事のほかに飲食店の皿洗いのバイトにもありつけた。そのバイトで出会った日本人面接官の女性が、今の妻である。

ここまでの人生を振り返ると、行き当たりばったりな行動が多いと思われがちだが、僕の場合、「なんとかなる」というよりも、「なんとかする」という気持ちが常に上にあった。オーストラリアで当初の目標通りに、現地の人の美容院で働くことがかなったのも、その強い気持ちがあったからだ。今思えば、当時、担当していたお客さんから「インドネシアはすばらしい国だ」と何度も耳にしていた。オーストラリア人の多くは好んでインドネシアに旅行をするからだ。オーストラリアの海をへだてた向こうにインドネシアが見えていたのだから、やはりインドネシアには縁があったということだろう。ここでの経験はジャカルタに渡ったときに大いに役立ったのだ。

ビザが切れると同時に、僕は今の妻と帰国。神奈川県の相模原市に家を借りて、友人の美容院の副店長としてオーブン業務にたずさわった。しかし、日本に帰国してから半年余りで、またもや「これでいいのか」と考えている自分がいた。「さまざまな国のお客様に接したあの経験を生かす方法はないか」との思いが増していくのは、僕だけではなく、海外暮らしを経験した妻も同じだった。

僕は、インターネットで海外のエージェントに相談をした。すると「シュンジ・マツオ氏がシンガポールで働けるスタッフを探している」との返信があった。これが、インドネシアへと進むことになるきっかけの始まり。まさしく、運命の出会いだった。

「シュンジ・マツオ」はアメリカやシンガポール、インドネシア諸国で美容院を展開する有名な美容師兼経営者だ。そんなすごい日本人の元で働くことができるのか。ただただ驚いたが、エージェントの紹介で言葉を交わした電話の向こうのシュンジさんは、とても明るく「ユー、来ちゃいなよ!」と言う。その後、東京・高田馬場でのヘアショーでシュンジさんのステージを初めて目にし、挨拶を交わした。存在の大きさと、アーティストとしての魅力に圧倒されたその瞬間は今も忘れられない。何を隠そう、その時、僕はすでにシンガポールへ行くビザの申請を終えた状態だったのだ。

僕は妻を連れてシンガポールに渡った。その時、妻は妊娠5カ月目。無謀な決行だが、妻は心から応援してくれていたのだ。働く店はオーチャードロードのショッピングセンター内にあったこともあり、アジアを飛び回る仕事をしているお客様が多かった。そのためか言葉は、独特のなまりがある。覚えなければならないことも多く、大変だったが、とりあえず楽しもうと決意した。いつだって振り切るのは早い性分。さぁ、新たな挑戦の始まりだ。

魅惑の国 インドネシア・ジャカルタ

シンガポールはインドネシアをはじめとする近隣諸国の人々が盛んに行きかう街。エネルギーに満ちあふれ、常に新しいものを求めていた。それだけに、やればやるほど結果につながる。まさに、やりがいのある仕事だった。

ことあるごとにシュンジさんに話をし、シュンジさんもそれに応えてくれた。シュンジさんが他国へ出張する際も、同行を積極的に名乗り出た。その熱意を感じ取ってくれたのか、ある時シュンジさんから、「ニューヨークのスタッフを前で、カットの講習をしてくれないか」と提案されたのだ。憧れのニューヨークへ美容師として行ける。すぐに返事をし、その後、ニューヨーカーの前で緊張しながらハサミを握った。シュンジさんとの出会いが、人生の宝になっていく。彼の背中を見ながら、僕は美容師としての仕事だけではなく、経営を学ぶようになっていった。

28才の頃、シュンジさんと、日本人スタッフのチエさんと三人で、タンピネスモールの中に「BASESTATION BY HISATO&CHIE」という美容院を立ち上げた。3人で相談し、5年リースの店舗をゼロから作りあげたのだ。大きな利益を出すことは難しかったが、シンガポールやインドネシア諸国のお客様が繰り返し足を運んでくれることに幸せを感じていた。そのお客様の中に、毎月一回、ジャカルタから通ってくれるお客様がいた。「インドネシアには気に入った美容院がないから」という理由だそうだ。何度か話をするうちに「ジャカルタで一緒に美容室をやらないか」と相談を持ちかけられた。しかし、それは自分の妻にビジネスを持たせてやりたいという「ハウスワイフビジネス」だった。せっかくやるならば、人を育て、店舗展開できる店を目指したい。思い切って、そう伝えた。ちょうどその頃、ルピアが下がり、民族間でのもめ事が大きくなっていた時期でもあった。シュンジさんに相談すると「チャンスはある。しかし、困難なことだ」とはっきりと告げられた。程なくして、ジャカルタで行われた新商品のサービス導入のイベントに、シュンジさんが僕を同行させた。自分の目で見て決断しなさい、という意味だった。

シンガポールにあるものが、まだジャカルタにはない。積極的に動けば実を結ぶかもしれない。「未開の地で挑戦したい」という思いはどんどん膨れ上がっていく。しかし、シュンジさんの会社で働き続けたいという気持ちに変わりはない。そこで僕は、シュンジさんの名前で美容院を出店する契約を交わし、ジャカルタで店舗展開を進めることにした。そうして2010年、「Shunji・Matsuo By HISATO」をオープンさせたのである。

家族もジャカルタに移住することになった。ジャカルタは優しい国民性もあって、子供にとっても住みよい街だった。僕自身は、4年間2週間ずつシンガポールとジャカルタを行き来する生活を続けたが「BASESTATION BY HISATO&CHIE」のリース期限が終了するとともに、ジャカルタに根をはることに決めた。

ジャカルタでは当初、日本人経営の美容師をずいぶんと珍しがられたが、親日家の人々が多く、家族のように温かく受け入れてくれた。

ジャカルタに来てはや8年。「Shunji Matsuo By HISATO」は新たに「One Piece」として発信し続けている。「One Piece」という名には、ひとりが欠けても地図は完成しないという思いを込めた。インドネシアには、美容師を教育する場所がない。だから日本から美容師を積極的にリクルートして、ジャカルタで美容師を目指す彼らに、優れた技術の教育の場を提供している。そして、やがてどこの国へ行っても生き生きと働けるように育てることが、僕の大切な役割だと思っている。

一人で髪を切るだけでは限りがある。新しいチャレンジを続け、スタッフとともに高めていく。このように前向きに一生懸命取り組んでいる僕たちの姿を知ってもらうため、僕はできる限り積極的に人に会うよう心がけている。「One Piece」の一人一人を好きになってもらうことが大切なことなのだ。

現在、「One Piece」はクマン本店・セントラルパーク店・クラパガディン店・朴パクボレジデンス店、そして鹿児島店の5店舗まで広がった。当店では、日本から来た美容師たちとジャカルタの美容師たちと世界中のお客様たちの笑顔であふれているのだ。


僕の夢はまだ始まったばかり。言葉や文化は違っていても、この国の人々の心は柔軟で豊かさにあふれている。大好きなこの国で、僕にできることは何か。かつて劣等感を抱え、取り柄のなかった僕にもできることはある。飽くなき挑戦はまだまだ続くのだ。