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【熱狂諸島】松永祥兵氏|インドネシアで活躍するプロサッカー選手

選手として、親善大使として、日本とインドネシアへ恩返し

さかのぼる2012年、ペルシバ・バリクパパンへの移籍が決まり、新たな拠点へと向かうジャカルタ空港でのこと。困り果てている様子の日本人女性を見かけた。列の前に居合わせたことも縁かと思い声をかけると、「トランジットでジャカルタに来ていて、ビザの取得方法が分からない」と言う。慣れたものだったので詳しく伝えたところ、また困ることがあったら連絡を取れるようにと、お互い電話番号を交換することになった。その後、連絡をとることはなかったので、その出来事自体、完全に忘れていた。

それから3年後のある日、友達と2人でバカンスに行ったバリで、たまたま同じ料理店に居合わせた日本人女性2人と話が弾み、意気投合した。日本からバリに遊びに来たと言う。電話番号の交換をすることになったのだが、なぜだか一人の女性の電話番号がすでに登録されていたのだ。その時、気が付いた。3年前、ジャカルタ空港で会った女性だ。まさに奇跡的な再会だった。

その日から、その女性と連絡を取り合うようになり、やがてお付き合いすることになった。彼女は東京在住。いわゆる遠距離恋愛だ。休みに合わせて、お互いが相手に会いに行った。正直言うと、付き合ったその日から彼女と結婚したいと思っていた。しかし、当時はインドネシアのサッカー界がストップして、職のない状況だったので、なかなか踏み切れずいた。そんな状況にもかかわらず、彼女は結婚を望んでくれ、2016年1月に結婚。そして、2017年6月に子供を授かった。初めて子供の顔を見たときはなんとも言えない感動があった。この子のためにも頑張りたい。強くそう思った。

子供を初めて抱いた日

良いことは続くもので、同年、日本インドネシア国交樹立60周年の親善大使に任命された。きっかけは、河合楽器の現地の社長がイオンや大塚製薬に掛け合って、「親善大使には松永がふさわしい」と薦めてくれたのだ。その前年に、移籍先を探していた能登正人選手とプルシブ・バリックパパンとの間を取り持ち、日本とインドネシアのサッカー界の橋渡し役を担ったことも理由のひとつだと思う。親善大使はとても光栄なこと。改めて、インドネシアでプレイし続けて良かったと思った。

子供と一緒に入場する筆者

今後、親善大使として、サッカーを通じて文化交流を目指すことはもちろん、SNSを通してそれぞれの良い文化を発信し続けたいと思う。また、インドネシアには日本人によるサッカー教室がないので、親の駐在でインドネシアに来ている日本の子どもたちに向けてサッカー教室を開設したい。さまざまな形で日本とインドネシアの架け橋になりたいと思っている。

インドネシアに来て7年。改めて、インドネシアの魅力を語るとすれば、暮らす人たちの気質の良さである。例えば、家族でレストランに行った時、子どもがぐずったら、店員さんが子どもを抱っこして、食事が終わるまで面倒を見てくれるなど、子どもを育てる上でも、温かい環境だと言えよう。来た当初は「とんでもない国」と思っていたが、今ではインドネシアが一番暮らしやすい国だと思っている。

子供と妻とグラウンドにて

一方、日本に帰ると、満たされた環境と人の幸せが反比例しているような気になる。個人の個性がなくなり、言いたいことが言えないような閉塞感も感じる。インドネシアはお金がなくてもみんな笑顔で、楽しく暮らしている。インドネシアに暮らすことが自分には合っているとつくづく感じるのだ。

最後に選手としての目標を記そう。

ひとつは、日本人としてインドネシアのサッカーリーグで唯一無二の選手になること。そして、もうひとつは憧れの三浦和良選手のように、長く選手としてプレイし続けること。ここに誓いを立て、両親をはじめ、応援してくれるすべての人への感謝の印とする。

(2018年:週刊Lifenesia掲載)