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【熱狂諸島】吉田 卓司氏|ECサイトのノウハウを活かし、友人とオイシックスを創業

オイシックス創業時のメンバーたちとの写真、最前列 左から4番目が筆者(黒い上着)

女性向け美容サイト「ビューティネシア」を始め、インドネシアでさまざまなビジネスを展開している私にとって、最大の起点となったのは日本最大手まで成長した食材宅配サイト「オイシックス(Oisix)」を立ち上げたことだろう。今ではその経験を活かし、毎年のように新しいビジネスを生み出し続けている。言うなれば、私にとってビジネスとはまさにライフワークなのだ。日本人である私がオイシックスを経て、なぜインドネシアで事業を展開させたのか。そして、これから何を目指そうとしているか。それを語るにはまず自分の生い立ちから語るよりほかはない。

プロフィール

吉田 卓司さん
2000年6月オイシックス株式会社(2013年東京証券取引所上場:3182)を創業し、代表取締役副社長に就任。2009年オイシックス子会社をMBOにより取得し、五反田電子商事として2度目の創業。アジアビジネスとしてゲームや高級錦鯉など日本のコンテンツをインドネシアに輸出する事業を展開。2013年8月には、東南アジアで初の開催となる大相撲海外巡業を主催。2015年、インドネシアでビューティー系のトピックスにフォーカスしたインドネシアの女性向けウェブメディア『beautynesia』を創業。2019年、現地大手財閥CPコープに売却し、CPコープグループ初の日本人役員となる。

ECサイトのノウハウを活かし、友人とオイシックスを創業

女性向け美容サイト「ビューティネシア」を始め、インドネシアでさまざまなビジネスを展開している私にとって、最大の起点となったのは日本最大手まで成長した食材宅配サイト「オイシックス(Oisix)」を立ち上げたことだろう。今ではその経験を活かし、毎年のように新しいビジネスを生み出し続けている。言うなれば、私にとってビジネスとはまさにライフワークなのだ。日本人である私がオイシックスを経て、なぜインドネシアで事業を展開させたのか。そして、これから何を目指そうとしているか。それを語るにはまず自分の生い立ちから語るよりほかはない。

1976年6月21日、私は福島県会津地方で江戸時代から商売を営む家系に生まれた。周りにいた大人はみんな経営者という特異な環境。当然、祖父も祖母も、父も母も経営者だ。そんな環境で育ったものだから、大人になると自然とビジネスの世界に魅せられた。初めてビジネスに関わったのは大学時代。インターネットを使ったビジネスを展開する中で、輸入商品を販売する企業からECサイトの制作を頼まれた。それがきっかけとなり、多くの企業から依頼を受け、さまざまなECサイトの制作に関わった。伊藤忠の子会社である内外航空サービスから依頼を受け、航空券の格安販売ECサイトを手がけたこともあった。乗車日程が近づくほど価格が下がるサービスで、特に大学生のニーズを掴み、多くの人に利用いただいた。実際、このサイトを立ち上げようと思ったのは、アメリカのPricelineという航空格安サイトの実績を知っていたからだ。当時の日本はYahoo! BBなどのADSL接続が普及し始めた頃で、インターネット領域は必ず伸びると予想がついた。IT先進国のビジネスモデルを模倣すれば必ず成功する。いち早くそれに気づいた私はさまざまなビジネスを生み出していった。

大学時代の友達に高島宏平という男がいる。彼とはそれまでもビジネスを共にしてウマが合っていたので、いつか大きなビジネスを展開しようと約束した。そこで、彼はマッキンゼー・アンド・カンパニーに入り経営の勉強し、私はさまざまなビジネスに関わることでITやプログラムの経験を得た。つまり、それぞれの役割をそれぞれ違った場所で高めたのだ。その2年後の2000年、アメリカではネットバブルの状態となり、日本においても今すぐにネットビジネスを展開しないと遅れてしまうと感じた。そこで立ち上げたのがオイシックスであり、私が展開していた野菜のECサイト「e831.com(イー野菜)」を引き継いだものだった。高島氏と起業するなら当時の”携帯電話”のような消費者の生活をガラリと変えるビジネスがしたい。「食」は人の生活には欠かせないものであり、野菜のネット販売こそが日本人の“チェンジライフ”につながると確信したのだ。

しかし、オイシックスを立ち上げてからは苦労の連続だった。なんでこんなことを始めてしまったのだろう。そう悩む毎日だった。行き詰まった要因を挙げるとすれば、一つは日本にインターネットで野菜を買う文化がなかったこと。ようやくアマゾンで本を買うのが始まったばかりだった。ましてや地元に並ぶスーパーよりも価格が高い。有機野菜で体に良いと伝えても、まったく主婦には響かなかった。もう一つの要因は、野菜の仕入れに困難を要したことだ。優秀な農家さんはすでに特定の卸業者と年間契約を結んでおり、良い農産物はすべて卸業者に押さえられていたのだ。それでも状況を打破したいと農家さんに直接交渉すると「お前の店はどこだ?」と聞かれ、パソコンを開いてサイトを見せると「バカ言うな!売れるわけねぇだろ!」と怒られる始末。周知されていないビジネスを展開する難しさを知った。ただ、そこでめげる自分ではない。まずは信頼を得ることが大切だと農家さんに頼んで、農作業を泊まり込みで手伝わせていただいた。朝は農作物の回収をし、昼は耕すなどの農作業や商品の箱詰めの物流の作業、夜になったらホームページを分析し、システム改善、プロモーション、その合間にはお客様対応とEコマースのすべての業務をこなす毎日。朝9時から翌朝5時まで、1日18時間労働という日々を2年間ほど過ごした。すると「なんだか分からないけど、お前、いいやつだな。出してやるよ」と良い農作物を分けてくれるようになった。たとえウェブ領域の仕事であっても、「人」と「人」のつながりが一番大切だと気付かされた瞬間だった。

オイシックス退社後、さらなる事業展開を目指しインドネシアへ

事業で成功をおさめるためには時代の流れに乗る必要がある。まさにオイシックスは優れた農家さんとの契約をきっかけに、当初予想しなかったほどの凄まじい追い風に乗ることとなる。まずは日本を代表する総合商社である日商岩井(当時)の資本参加が決まった。当時の日商岩井は牛乳宅配を行なっており、その顧客と物流を活かした有機野菜の販売をオイシックスと共同で担うことになった。販売した牛乳の袋に野菜の広告を入れ、牛乳瓶の回収時に注文を受けるという流れだ。アナログなやり方だったが牛乳を購入する健康に気遣う高齢者層のニーズにマッチし、売り上げが増えた。さらにECサイトにも大きな動きがあった。これまで農家が販売できなかった曲がったきゅうりや小さなじゃがいもなどの規格外の野菜を安価で販売し始めたことで、「有機野菜は高い」と敬遠してきた主婦層の心をグッと掴んだのだ。これこそ農家さんと信頼関係を築いてきたオイシックスがなせる技だった。見た目は少しぶさいくでも、味は変わらず、体に良い野菜たちを「ふぞろいの野菜たち」というブランドとして扱い、その結果、各メディアに取り上げられ、オイシックスは一躍脚光を浴びるようになった。今ではよく見かける規格外の野菜を最初に販売へとこぎ着けたのはオイシックスだった。まだまだ追い風は続く。当時は集団食中毒事件や狂牛病など、毎年のように食品の問題が起きた時代だった。マスコミでも「食の安全」の特集が組まれ、大衆は食に「安心・安全」を求めていた。そういった時代の流れに、国産の有機野菜を扱うオイシックスがハマった。さらにマスコミで取り上げられ、インターネットで「食の安全」と検索するとオイシックスが上位に表示されるまでになった。

創業当時の役員メンバー(左から2人目が筆者)

オイシックスはその後も業績を伸ばし、2013年には株式上場を果たすこととなる。私はオイシックスを立ち上げる時から「30歳になったらまた自分で別の事業を立ち上げる」と人生設計を10代から決めており、当然他の創業メンバーにもそれを伝えていた。従って30歳の時にオイシックスの子会社としてECサイトの構築の経験を生かしたコンサルティング会社「オイシックスECソリューション」だ。私はオイシックスと同様に女性をターゲットにしたECサイトを手がけたいと考えていた。理由は、自分の主観で判断せずに常にお客様の意見を尊重できるからだ。オイシックスは、台所にも立ったことのないような男子大学生達で主婦をターゲットにしたビジネスを立ち上げた。その結果我々は全く主観を入れることなく100%お客様の意見だけを尊重してサービスを作り上げ成功した。主観を入れるとビジネスは判断ミスが起きる、というのが私の持論だった。そこで、目をつけたのがアパレル。当時のアパレル業界ではECサイトを展開するZOZOTOWNが勢いに乗っていて、各ファッションブランドはZOZOTOWNに押されている様子だった。そこで自分たちのECサイトを展開したいという各ブランドのニーズを捉えて、JUNMENやROPE、グッチグループなど、さまざまなブランドのEC、ネットマーケティングの立ち上げに関わった。2007年のことだ。

オイシックス創業時、『日本一の会社になる』と決めた。まずは何でもいいから日本一を目指そうと「日本一高い場所で会議をする会社」を標榜し、全員スーツでホワイトボードもって山頂でまじめに会議をした(前列でホワイトボードを持つのが筆者)

30代はもう1つビジネスを展開させるなら”海外へ”という思いがあった。その当時の海外事業のコードは「ノアの箱舟」。現在、日本経済はまだ晴れて問題ないが、近い将来は高齢化で暗雲が立ち込めるだろう。その時に日本を助けるための船(ビジネス)と応援してくれる海外の人材を集めて将来の日本の子供たちに引き継ぐのが我々世代の役割であるという考え方である。

そのために近場であるアジアの拠点地をどこに移すべきかを熟考した。条件としては「親日」であるということ。そして、人口が増加していて、いずれ大きなマーケットになるであろう国。そうだ、インドネシアだ。思い立ったらすぐに行動するのが私のスタイル。その翌年にはスラバヤにて自社システムのオフショア開発をスタートさせた。ただ、日本人がインドネシアでビジネスを成功させるには何かが足りないと感じていた。当時、インドネシアではルール通りにやっても絶対に成功できないだろうと感じていた。そう思った瞬間、経営者家系で生まれ育った私の血が騒いだ。事業を成功させるためには富裕層との太いパイプを作るしかない。そこで思いついたのが「錦鯉ビジネス」だったのだ。

東南アジア史上初!大相撲ジャカルタ巡業の興行に尽力

インドネシアでビジネスを成功さるのには、まともにやってもきっとうまくいかない。超が付くほどの資本主義で「お金こそ権力」ともいえた、かつてのインドネシアでは富裕層と太いパイプを持つことが成功の鍵だと考えた。では、どうやってお富裕層とつながりを作るか。考え抜いて出た答えが錦鯉を販売するビジネスだったのだ。当時のインドネシアの富裕層では錦鯉ブームが来ていて、高いものでは1匹5,000万円以上で取引されていた。日本から錦鯉を輸出して、1匹500万~1000万円で販売すれば成功できる。早速、仲間とともにインターネットを使いオンラインで錦鯉のオークションを行えるサイトを立ち上げた。さらに『月間錦鯉』という日本で販売されている月刊誌をインドネシア語に翻訳して、インドネシアで出版した。さらには錦鯉だけでなく刀や盆栽などの日本にゆかりのある商品を日本好きなお金持ちに向けて販売もした。そうすることで、インドネシアの富裕層と太いパイプを築くことに成功した。ニーズをつかんで、それを突破口にする。これまで培った経験が活きたと感じた。その最たるものとしては「大相撲をインドネシアに呼んで欲しい」との要望を叶えたことだ。

1000年以上もの歴史がある相撲は、これまで東南アジアで一度も開催されたことがなかった。他のすべての大陸で開催されていたのに。もし大相撲の東南アジアでの巡業を成功させれば、史上初めての快挙となる。早速、大学時代にお世話になっていた北の湖理事長に直接お願いに行き、了承を得ることができた。しかし、そう簡単には進まない。あらゆる困難をかわして、あれこれと立ち回り、その糸口を探った。そして、一年半後、2013年夏のジャカルタでの大相撲の開催が決まったのだ。英語すらまともに話せず、当然インドネシア語なんて分からない。そんな私を突き動かすのはオイシックス時代に培ったやり抜く力だ。実際、2012年からインドネシアに移住することを決め、拠点も移した。あらゆる覚悟が実を結んだのだ。


開催日も大変なことがあった。インドネシアの副大統領が開催会場に来ることになったことだ。ヘリが飛び交い、戦車が辺りを包囲する、まさに厳戒態勢。突然、爆弾チェックが行われる始末だった。しかし、白鵬、日馬富士の両横綱を迎えた東南アジア初の興行には1万4000人もの人が詰めかけ、大相撲に熱狂したのだった。今の大統領、当時ジャカルタ知事だったジョコウィ氏にもお会いすることができた。

興行後は燃え尽きたような気持ちでいたが、また新たなビジネスをしたいと考えていた。しかし、eコマースだけは卒業しようと考えていた。トコペディアを台頭とするeコマース業界が熾烈を極めていていることも理由だった。逆に言えば、eコマース業界は潤っている。そうであれば、eコマース業界をお客さんにするようなビジネスを展開すれば良いのではないか。燃え尽きた火がまた灯った。ターゲットは女性。展開するのはメディアビジネスだ。そして、2015年にインドネシア人女性向けのキュレーションサイト「ビューティーネシア」をスタートさせた。当時のインドネシアはウェブメディアが少なく、きちんとSEO対策しているサイトも少なかった。オイシックスで学んだネットマーケティングの知識や経験を活かし、SEOをしっかり施せば勝てると感じた。すると仕掛けた通り閲覧数が伸び、月間3,000万ビューを達成するインドネシア最大規模の女性向けウェブメディアに成長し、2年半で単月黒字化まで作り上げた。

そして今年、4年間育ててきた「ビューティーネシア事業」の株式の過半数以上を大手財閥CTコープグループ傘下のトランス・デジタルに売却した。この時の私にとっての成功とは事業を成長させ、目処が立ったら売却することだった。また、日本人の私たちにとって、インドネシアでメディアビジネスを大きくしていくには限界があることは最初から見越して現地のパートナーがいなければ難しいことはわかっていた。より多くのインドネシアの方たちにサービスを使ってもらい、さらに拡大していくためには、自分がオーナーではなくなっても、現地企業との協力体制を築くことや、運営を移管する必要性を感じ最初から事業をスタートしていた。

釣り船、割烹など新たなビジネスに着手 ベトナムへのメディア事業展開も

思えば毎年のように新しいビジネスをスタートさせ、次から次へと展開させていることに気づく。2013年には、数々の人気ゲームコンテンツを輩出するスクウェア・エニックス・ホールディングスグループとインドネシア市場におけるネットワークゲーム開発を行う合弁会社を設立した。2014年にはジャカルタでのレストラン投資事業として、インドネシア人、シンガポール人、カナダ人、ブラジル人とともに3店舗のレストランを立ち上げ、さらにはこのレストランを使ってインドネシアへの食品販売を目指す日本国内の事業者向けのマーケティング支援のサービスなどにもチャレンジしている。他にも北海道での不動産ビジネスやシンガポールでのイベントマネジメントサービス会社の立ち上げなどにもかかわってきた。

筆者(左)とCTコープ創業者ハイルル・タンジュン氏

これらの事業を生み出すときは当然、ゴールを見据えて展開させる。例えば、ビューティーネシアのようにブランドを確立させたあとに売却することもゴールのひとつ。このような仕掛けは一度ノウハウを得ると他国でも活用可能となる。それが2018年後半からベトナムで開始し、現在ブランド化を進めているベトナム人女性向けのキュレーションサイト『Beauties Vietnam』だ。本誌ライフネシアの姉妹紙でもあるベトナム在住日本人向け情報誌「週刊ベッター」を発刊する企業とともにゴールに向けて進めている途中だ。

成長著しいベトナムのホーチミン市

今年はさらに2つの新しいビジネスを始めたのでご紹介したい。1つは『釣り船ビジネス』だ。もともとゴルフはそれほどやらなかった自分がインドネシアの豊富な魚種に魅了されて、釣り船を購入しビジネス化した。実はこのサービスのゴールは釣りではなく、「新鮮な魚を食べる」ことにある。インドネシアは海に囲まれた島国で、海洋生物の宝庫と言われているもかかわらず、美味しい魚が市場に出まわらない。もともとインドネシアにて趣味で釣りを始めたのだが、釣れた新鮮な魚があまりにも美味しいのでこれをサービス化できないだろかと考え、自分たちで釣って、新鮮な魚を食べる釣り船ビジネスに辿り着いた。鰆や鯛、時には50cmを超えるハタなどの高級魚も釣れる。その日の夜には参加者とその家族で獲れたての正真正銘新鮮な魚フルコースで舌鼓を打つ最高の贅沢である。毎週のように接待や親子連れなど多くの方々に喜んでいただいている。(ご興味ある方はFacebookで「Yoshida-ya」と検索)

自身の釣り船で大物を釣り上げたときの筆者

2つめとして今年9月に、ブロックM祭りの主催者として知られる竹谷大世氏と組んで『寿司・割烹「呑」』という完全会員制の和食レストランをオープンした。(https://kappodon.com/)ここで食べられる魚は独自ルートで入ってくる日本からの牡蠣やふぐ、ウニなど季節の魚介類と、自身の釣り船で釣り上げている魚を含むインドネシアの新鮮な魚介類を組み合わせる。基本おまかせスタイルでその日に一番コンディションが良い食材を出していく。ただ新鮮なだけなく、1週間以上熟成させたサーモンなども組み合わせるのがポイントで、それほど多くの量は出せないので会員制にした。

「面白い」と思える多くのビジネスであれば、既成概念にとらわれずチャレンジする。その点がいつかはつながり、やがて面や立体になる。まさにそうやってここまで来たのだ。このインドネシアで成功するのはなかなか簡単ではないが、その分だけやりがいがある。そして、それが「我々の子供たち」や「日本の未来の発展」に貢献することができると信じて、楽しみながら今後もこの橋を作っていきたいと思う。