インドネシアの民族主義運動・女性解放運動の先駆者ラデン・アジェン・カルティニの誕生日である4月21日「カルティニの日」は、インドネシアのすべての女性にとって特別な日である。毎年この日には各地で式典が開催され、男女平等を継続的に求めることの重要性を思い出させてくれる。
一夫多妻制の家庭に育ったカルティニは、同制度に疑問を抱いていた。ヨーロッパ人学校を卒業した後に進学を希望するが認められず、ピンギタン(婚前閉居)を強いられる。女性の権利を求める彼女の考えを擁護する人もいないなか、不条理に苦しみながらも独学でオランダ語の勉強を続けた。1898年、ピンギタンから解放されたカルティニはヨーロッパ各地の社会民主主義者との親交を開始する。1900年には、ジュパラを訪れた植民地政府教育省長官に面会し、貴族階級女子のための寄宿舎付き高等学院の構想を提示したが、周囲の強い反対を受け構想は頓挫。その後カルティニはジュパラの県知事邸にて近所の女子のための学校を開いた。
オランダ留学の夢も叶わず、カルティニは知事邸にて学校を開く許可等を条件に、レンバン県の知事ジョヨアディニングラットからの求婚を受け入れる。1904年9月13日、男子を出産。その後健康状態が悪化し、同月17日に25歳という若さで亡くなった。